”ラオシャン”のお話  その3!!

ご好評につき、?? 第3話をお話します。  いい加減にしろよ。という声もちらほらありますが・・・・・ 平塚の店(本店)に通い続けているうちに、このオヤジさんと打ち解けて話ができるようになって、「この”湯麺”(タンメン)の店を自分もやってみたい。」 ・・・という話をしてみたのです。

 当然、今、自分が経営している事業は継続しながら、この仕事のチャレンジという無謀な考えではあったのですが・・・・・ まず、オヤジさんには即断られました。   「今、立派に事業をしているものが、なんでこんな仕事が出来るものかよ、お前みたいに、軽はずみな人間がよく来るがそんな簡単なものではない。」  ときっぱりと断られました。

 この話は事前に妻にも会社の専務(実弟)にも相談しましたが、もちろん、猛反対されました。 この当時、札幌ラーメンチェーンがはじめてFA(フランチャイズ)し始め頃で、現在のこれほどのラーメンブームはなかったと思います。

 ぜひ、この麺”FA方式で全国展開したいという途方もない野心をいだいていたのです。  周囲の猛反対を振り切って、オヤジさんには何度も交渉を繰り返しました。 この仕事への思いをどうしても断ち切れなかったのです。   この熱意にほだされて、「どうしてもやりたいのなら、3つの条件があるぞ」 と言われたのです。

まず、「自らが厨房にたって麺を上げなければダメだ。」  そして、「メニューはこのタンメンと餃子以外はダメだ。」  そして、「何があっても3年間は我慢して店を畳まないこと。」 ということでした。

当初、自分と同じ志願者が相当いて、皆門前払いか、また何とか許しをえて店を開いた方々もいました。 どの店もこの教え(条件)を守らず志半ばにしてやめていったり、類似した商品を新たに開発して独自の店を継続している方々もいました。

このタンメンはこのオヤジさんの作り方でやらなければ、絶対にこの味は出せないと思いこみ、この”老卿”出店計画はとうとう周囲の反対を押し切って強行突破してしまったのです。

昭和61年10月、愛川町 相模陸運事務所前に2000万円もの大金を投じて、総ステンレス張りの厨房をあしらえた立派な”老卿”の店”をオープンしてしまったのです。 ハイ!!


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