ラオシャン伝  

第1回 ラオシャンとの出会い       

今まで温めていた・・・”ラオシャン”の”話”をします。  
ただ、この話は関連の皆様方々にはいろいろ異論が生じるかと思いますが、あくまで、私自身の独断と偏見で語るもので、軽く聞き流していただければと思います。

 まずはこの”出会い”から説明いたします。
50年以上も前に遡りますが、・・・平塚の勤務先の先輩に連れて行かれ、初めてこのラオシャン(老卿)のタンメンと出会ったのです。 初めて食したこの味に、「何、この味は・・・??」 とその珍味のタンメンをかなり残してしまったことを覚えています。

それから15、6年経った後に、同業の社長に厚木に旨いタンメンを食わせる店があると言われ、そこに連れて行ってもらったのです。もちろん、そのときは、”平塚のタンメン”のことは忘れていてたのですが、何か以前に、味わったような感じがするな、と思ってはいたのですが・・・・
その厚木のタンメンが大変美味しかったので、その後、その社長と頻繁に通うことになり、店のオバチャンとも親しくもなり、お持ち帰りのタンメンも作っていただき、このタンメンにかなりハマってしまったのです。

それから、数年して平塚に仕事で出かけた際に、駅前にある 『老卿』 の看板をたまたま見つけたのです。厚木の店もこの「老卿」の看板を掛けていましたので、興味をもってこの店に入ったのです。 この店が初めて味わった、”平塚のタンメン” の支店(地下のお店)だったのです。
(現在は閉店)

そこで食べたタンメンの味が自分の人生を大きく変えることになったのは事実です。!! 

いままで食べていた厚木のタンメンの味と本質的は似ていますが、独特なコクと旨みが違うのです。 もちろん、厚木のタンメンの味を熟知していたから余計にその差を感じたのですが・・・・ この後に、このラオシャン(老卿)の頑固オヤジと出会うことになるのですが、・・・・ハイ

   

 

第2回 ラオシャン頑固おやじ      

 平塚の店(本店)に通い続けているうちに、この無口な取っつき難いオヤジさんと打ち解けて話ができるようになったのです。
ある日、意を決して思いのうちを打ち明けたのです。   「 この”湯麺”(タンメン)の店を自分もやってみたい。 」 ・・・・・と

 当然、今、自分が経営している ”自動車販売” は継続しながら、この”仕事”へチャレンジするという無謀なことではあったのですが・・・・・
まず、オヤジさんには即断られました。
 「今、順調に事業をしているものが、なんでこんな仕事が出来るものかよ、お前みたいに、軽はずみな人間がよく来るが、そんな簡単なものではない。」  ときっぱりと断られました。

 この話は事前に妻にも会社の専務(弟)にも相談しましたが、もちろん、猛反対されました。 この当時、札幌ラーメンチェーンなどのFA(フランチャイズ)化の走りの頃で、現在ほどのラーメンブームではなかったと思います。

 ぜひ、この湯麺”(タンメン)を将来 ”FA” で展開していきたいと途方もない野心を秘かに抱いていたのです。
 周囲の猛反対を振り切って、オヤジさんには何度も交渉を繰り返しました。 ラオシャン全国展開の夢をどうしても断ち切れなかったのです。   
この熱意にほだされたのか、呆れたのか、どうしてもやりたいのならと、・・  3つの条件を突きつけられたのです。

まず、「自らが厨房にたって麺を上げなければダメだ。」  そして、「メニューはこのタンメンと餃子以外はダメだ。」  そして、「何があっても3年間は我慢して店を閉めないこと。」 ということでした。
そうして、この無謀ともいえる”老卿”出店計画はとうとう周囲の反対を押し切って強行突破したのです。
昭和61年10月、愛川町 相模陸運事務所前に総ステンレス張りの厨房をあしらえた立派な”老卿”の店”をオープンしてしまったのです。 

 

当時、自分と同じ ”出店希望者” が何人もいて、殆んどが門前払いか、また何とか許しをえて店を開いた方々もいました。  ただ、どの店もこの教え(条件)を守らず挫折して店を閉めたり、類似した商品を新たに開発して独自のメニューで継続している店もありましたが、・・・・現在においては、平塚のラオシャン(老卿)の味を守っている直営店は、結局、この本店(紅谷町)だけとなってしまいました。

このオヤジさんが作りだしたラオシャン(老卿)その流儀は、今日、2代目の息子さんに継がれて、ラオシャファン( ラオチュウ )を魅了してやまない味を満足させています。

次回につづく

 

第3回 『 ラオシャン店 』 強行突破!!

オヤジさんと交わした” 3つの条件 ” である、「自らこの仕事に取組むということ。」 を実践したのです。 
 自動車販売の仕事は弟(専務)に任せて、単身で毎日愛川町まで通って ”この店” を切り盛りすることとなったのです。
(事前に平塚の店で約3か月ほど実践”修行”を受けました。)

猛反対を押し切っての開店でしたので、妻や、会社の人々には一切救いを求めないという気持ちで3年間は本当に一人で頑張りました。 
健気にも、当時小学5年生だった息子だけは休日など手伝いに来てくれました。

 

この頃には、オヤジさんは現役を引退して、奥さんと娘さん、そしてパートのおばさんたちに任せていました。 新築した豪邸にに製麺機やタレを作る工場も併設して、そこで一人気ままに麺打ちや ”極秘のタレ” 作りに専念していたのです。
  このオヤジさんのエピソードは沢山あります。

 大変な美食家でお酒は昼間から一升瓶をたてて豪快に飲んでいた御仁ですが、自ら決めた、定期的に一週間程の”断食”を決行するのです。 家族が目の前で食事をしていようと、少量の水以外絶対に口にしない意志の強さを今でも印象深く覚えています。

その20年程前、、ラオシャンで繁盛したその勢いで、その当時、平塚では河野謙三(元参議院議長)とオヤジさんしか所有していなかったと言う ”ベンツ”を運転手付(オヤジさんは免許証はないため)で乗り回していたのです。 そのベンツのドアには赤いロゴで ”老卿” とペイントして市内を走りまわっていたという逸話も残っています。 ( ヤナセからは、ベンツを乗る人としての品位に欠けるとクレームが付いたそうです・・・・)

 

約3か月ほどの”修行”を終えて、愛川町に開店した”老卿”は自ら”麺上げ人”としてとりあえずスタートしたのです。 もちろん、3か月ほどの修行で一人前の麺上げ などできるはずがありません。 素人でもできる高額な”麺上げ器”を設置してのにわか ”麺上げ人” としてスタートしたのです。

カウンターに10人前後が座ると満席になる店で、開店当時、物珍しさもあって昼どきは満席になる日が続きました。 目の前のお客様から視線を浴びて、緊張と焦りでどんな味のタンメンをお客様に出したのかと、後になって考えると寒気がする思いでした。

日を重ねるごとに徐々に慣れてくると, お客様の”この味”に対する反応がどうかと、食べ終わったどんぶりが気になりだしたのです。 ほとんど残して帰られるお客様も中にはいて、たまにスープまで全て飲みほして、「これは美味しいね」と言って下さるお客様もいる一喜一憂の毎日でした。

この酢タンメンは、ラー油をかけてより一層の旨みが出るので、好みによって違いますが、出来あがったタンメンにラー油を入れるようにお勧めするのですが・・・ 中にはそのまま召し上がるお客様もいて、再度勧めることが何度もありました。(余計な御世話だよ、と言われたことも・・・)

平塚の本店では、出されたタンメンが真っ赤に染まるくらいラー油をぶち込んで食べて行かれるお客様がほとんどで、この”カルチャーショック”?を思い知らされた訳です。  ちなみに、この自家製ラー油ですが、平塚の本店(支店も含め)では週に36リットルも作りますが足らなくなる時もあるそうです。

 高級ごま油に特注の唐辛子を使用した、香り高いラー油は酢タンメンには欠かすことのできないものなんですが・・・・・
この地で、このラオシャンタンメンの味をお客様に浸透させて リピーター(ファン) になってもらうまでには相当の時間と覚悟がいるな、と改めて実感したのです。  ハイ!!

 

 

第4回  ラオチュウ

玉ねぎ、わかめ、そして、酢という健康食そのもの、そのタンメンにライ油をたっぷりかけて、3年間自分の毎日の昼食はこれだけで十分でした。 (ラオシャンにハマった連中を ラオチュウ と勝手に造語しました。)
毎日たべても飽きないで旨いと自画自賛して、こんなに旨いタンメン がなぜココではウケナイなんだろう??・・・・と思いにふけったこともありました。

1年、2年と経っても、売上は上がるどころか、下降していく状態でした。 当初描いていた平塚の店の繁盛イメージとはケタ違いな売上に思い悩む日々が続きました。

その頃に、このタンメンと餃子だけのメニューでは・・・ という考えが浮かんできたのです。
週に2度ほど平塚のオヤジさんのところに麺とタレをもらいにいくのですが、 この時にそのことを打ち分けたのです。
 「 やっぱりおまえもか・・・・・、皆、同じこと考えて相談に来る。 中には勝手にメニューを増やしてしまう奴もいるよ・・・

フランチャイズ方式ではないので、なんの規約も制約もありません。
「 平塚の店の盛況を見てみろ。 これまでになるのに何年辛抱したと思う・・・・・この味だけで商売するには、この酢タンメン一本にしぼって”ラオチュウ を育てていかなければならない」 「それには、相当の辛抱と忍耐が必要なんだ 」 と諭しながら、これまで 老卿 が辿ってきた苦難の歩みを語ってくれたのです。

 頑固なまでに ”のれん分け” しない訳がここにあったのです。 敢えて出店を申し出る輩に ”3つの条件” を掲げる意味が理解できたのです。  
実は、この相談をするまえに、自分なりに工夫をこらして具にチャーシューをのせてみたり、昼の定食コーナーをつくり、タンメン、餃子、ライスのセットメニューなども試みたりしたのです。
 結局、酢タンメン独自の味の本質が損なわれてしまうということが後で解かったのです。が・
(現在でも、 ラオシャン(老卿)ではタンメン、餃子以外のメニューはありません。)

 

オヤジさんとの約束を守り、3年間のラオシャン経営は続けました。
3年の間に地元のたくさんの ”ラオチュウ” が増えましたが、やはり愛川町という地域でこの味を浸透させていくにはもう数年はかかると思い始めたのです。

折しも、本業の自動車販売業の方が業績低迷に陥っている中、この3年目を契機に決断をしなければならない状況になったのです。 

次回は、最終章となります。

 

第5回 ラオシャン 終焉

折角、3年間、辛抱して家族、会社の人たちにも迷惑をかけ続けたチャレンジはここで断念することになったのです。  結局、この味をFA(フランチャイズ)に載せて全国展開する夢を果たすことは叶わなかったということです。

ここから数年後に親愛なるオヤジさんは逝去いたしました。 その後、奥さん、娘さん、そして現在は息子さんが跡を取って老卿ラオシャンの味を継承しています。

 

このラオシャン伝の ”締め” としては、敗北論にはせずにポジティブに終わろうと思います。

”ラオシャン” にチャレンジしてからもう40年以上も経ちますが、このタンメン(酢湯麺) を愛する気持ちは今も変わってはいません。 このチャレンジがもたらした負の部分がその後の事業に大きな足かせになったことは否めません。 しかし、この3年間で得た貴重な体験は掛けがいのない財産として残っています。

この時に覚えた麺類にたいする”調理法”、”餃子作り” は家族から絶大の称讃を享けています。
月に1,2度の餃子パーティは家族が愉しみにしている行事です。 「 爺々、こんどいつ餃子作ってくれるの・・・・」 という言葉が続くかぎり、自慢の餃子作りは続けたいと思っております。・・・・・   完