ラオシャン伝 そのⅡ

 平塚の店(本店)に通い続けているうちに、この無口な取っつき難いオヤジさんと打ち解けて話ができるようになったのです。
ある日、意を決して思いのうちを打ち明けたのです。   「 この”湯麺”(タンメン)の店を自分もやってみたい。 」 ・・・・・と

 当然、今、自分が経営している ”自動車販売” は継続しながら、この”仕事”へチャレンジするという無謀なことではあったのですが・・・・・
まず、オヤジさんには即断られました。   「今、順調に事業をしているものが、なんでこんな仕事が出来るものかよ、お前みたいに、軽はずみな人間がよく来るがそんな簡単なものではない。」  ときっぱりと断られました。

 この話は事前に妻にも会社の専務(弟)にも相談しましたが、もちろん、猛反対されました。 この当時、札幌ラーメンチェーンなどのFA(フランチャイズ)化の走りの頃で、現在ほどのラーメンブームではなかったと思います。

 ぜひ、この湯麺”(タンメン)を将来 ”FA” で展開していきたいと途方もない野心を秘かに抱いていたのです。
 周囲の猛反対を振り切って、オヤジさんには何度も交渉を繰り返しました。 この仕事への思いをどうしても断ち切れなかったのです。   この熱意にほだされたのか、呆れたのか、どうしてもやりたいのならと、・・  3つの条件を突きつけられたのです。

まず、「自らが厨房にたって麺を上げなければダメだ。」  そして、「メニューはこのタンメンと餃子以外はダメだ。」  そして、「何があっても3年間は我慢して店を閉めないこと。」 ということでした。
そうして、この無謀ともいえる”老卿”出店計画はとうとう周囲の反対を押し切って強行突破したのです。
昭和61年10月、愛川町 相模陸運事務所前に総ステンレス張りの厨房をあしらえた立派な”老卿”の店”をオープンしてしまったのです。 

 

当時、自分と同じ ”出店希望者” が何人もいて、殆んどが門前払いか、また何とか許しをえて店を開いた方々もいました。  ただ、どの店もこの教え(条件)を守らず挫折して店を閉めたり、類似した商品を新たに開発して独自のメニューで継続している店もありましたが、・・・・現在においては、平塚のラオシャン(老卿)の味を守っている直営店は、結局、この本店(紅谷町)と支店(駅前地下)の2点しかありません。

このオヤジさんが作りだしたラオシャン(老卿)の商売の流儀は、今日、2代目の息子さんと、姉との2人で ”この味” を継承しているのです。

次回につづく