ラオシャン伝 そのⅢ

オヤジさんと交わした” 3つの条件 ” である、「自らこの仕事に取組むということ。」 を実践したのです。 
 自動車販売の仕事は弟(専務)に任せて、単身で毎日愛川町まで通って ”この店” を切り盛りすることとなったのです。
(事前に平塚の店で約3か月ほど現場修行を受けました。)

猛反対を押し切っての開店でしたので、妻や、会社の人々には一切救いを求めないという気持ちで3年間は本当に一人で頑張りました。 
健気にも、当時小学5年生だった息子だけは休日など手伝いに来てくれました。

 

この頃には、オヤジさんは現役を引退して、奥さんと娘さん、そしてパートのおばさんたちに任せていました。 新築した豪邸にに製麺機やタレを作る工場も併設して、そこで一人気ままに麺や ”極秘のタレ” を作って店に送っていたのです。  このオヤジさんのエピソードは沢山あります。

 大変な美食家でお酒は昼間から一升瓶をたてて豪快に飲んでいた御仁ですが、自分で決めて定期的に一週間程の”断食”を決行するのです。 家族が目の前で食事をしていようと、少量の水以外絶対に口にしない意志の強さを今でも印象深く覚えています。

その20年程前には、ラオシャンで繁盛したその勢いで、その当時、平塚では河野謙三(元参議院議長)とオヤジさんしか所有していなかったと言う ”ベンツ”を運転手付(オヤジさんは免許証はないため)で乗り回していたのです。 そのベンツのドアには赤いロゴで ”老卿” とペイントして市内を闊歩していたという逸話も残っています。 ( ヤナセからは、ベンツを乗る人としての品位に欠けるとクレームが付いたそうです・・・・)

 

約3か月ほどの”修行”を終えて、愛川町に開店した”老卿”は自ら”麺上げ人”としてとりあえずスタートしたのです。 もちろん、3か月ほどの修業で一人前の麺上げ などできるはずがありません。 素人でもできる高額な”麺上げ器”を設置してのにわか”麺上げ人”でした。

カウンターに10人前後が座ると満席になる店で、開店当時、物珍しさもあって昼どきは満席になる日が続きました。 目の前のお客様から視線を浴びて、緊張と焦りでどんな味のタンメンをお客様に出したのかと、後になって考えると寒気がする思いでした。

日を重ねるごとに徐々に慣れてくると, お客様の”この味”に対する反応がどうかと、食べ終わったどんぶりが気になりだしたのです。 ほとんど残して帰られるお客さんも少なくはなく、たまにスープまで全て飲みほして、「これは美味しいね」と言って下さるお客様もいて一喜一憂の毎日でした。

 

この酢タンメンは、ラー油をかけてより一層の旨みが出るので、好みによって違いますが、出来あがったタンメンにラー油を入れるようにお勧めするのですが・・・ 中にはそのまま召し上がるお客様もいて、再度勧めることが何度もありました。(余計な御世話だよ、と言われたことも・・・)

平塚の本店では、出されたタンメンが真っ赤に染まるくらいラー油をぶち込んで食べて行かれるお客様がほとんどで、この”カルチャーショック”?を思い知らされた訳です。  ちなみに、この自家製ラー油ですが、平塚の本店(支店も含め)では週に36リットルも作りますが足らなくなる時もあるそうです。

 高級ごま油に特注の唐辛子を使用した、香り高いラー油は酢タンメンには欠かすことのできないものなんですが・・・・・
この地で、このラオシャンタンメンの味をお客様に浸透させて リピーター(ファン) になってもらうまでには相当の時間と覚悟がいるな、と改めて実感したのです。  ハイ!!

次に続く